今週は久しぶりにゴミをたくさん出しました。
とりあえず「いらないかもしれない」と思ってまとめて置いておいた物や、もしかしたら使うかもしれない、という分類のものたち。
案の定、ただ埃をかぶって置きっぱなしになっていただけで、一瞬も触らないまま時だけが過ぎていました。
今の私や、これからの私たちにとって必要ないと判断して、一気に手放しました。
「いつか使うもの」なんて、ほとんど存在しない
正直、スッキリした!という感動もありません。部屋の見えないところに置いていただけで、触ってもいなかったから。
ただ、「いつか使うもの」なんてほとんど存在しない、という実証実験が終わった、そんな感覚でした。
私たちは確実に未来に向かって進んでいて、その時に合わせて持つものも変わっていきます。本当に必要なものなんて、ほんのわずかしかないのかもしれません。
「人は離れていくけど、ものは自分が手放さない限り離れていかない」
昨日たまたま、東大卒で”ものが捨てられない”というドキュメント番組を目にしました。
「人は離れていくけど、ものは自分が手放さない限り離れていかない」
そんな言葉が出てきました。
過去に人が離れていった経験や不安が、ものを手放せなくしていた。唯一のお友達の勧めで少しずつ捨てていく中で、ゴミの山からアルバムが出てきて、自分が愛されていたことに気づき涙する——そんな場面で番組は終わっていました。
モノは、執着のひとつなのかもしれない
モノは、やっぱり執着のひとつなのかもしれません。だって、なくても困らないものだから。
手放せないのは、心の奥にある何か。不安かもしれないし、寂しさかもしれないし、過去への思いかもしれない。
その思いって何だろう?
そこに向き合うことで、自分の心地よい環境を手に入れられるのだと思います。
「冷たい人間」と言われても
ものを断捨離して「冷たい人間だ」と言われたこともあります。
でも私は、自分の時間の有限性を大切にしているだけ。自分なりの心地よさを守っているだけです。
当たり前ですが、私の生活は私が毎日向き合っているもの。自分を大切に守るために、またものを手放す。
そして、静かな心地よさを味わう。
手放せなかったのは、モノではなく——過去の不安だったのかもしれません。