夫を亡くしてから、私はたくさんの言葉に傷ついてきました。でも同時に、自分も知らず知らずのうちに誰かを傷つけていたことに気づいたのです。
この記事では、死別という経験を通して見えてきた「決めつけ」について、私の正直な気持ちをお話しします。
「かわいそう」という言葉の重さ
「旦那様を早く亡くされて、かわいそう」
この言葉を聞くたびに、私の胸には小さな棘が刺さっていきました。
もちろん、大変でした。
愛していた人がいなくなり、子どもたちを一人で育てる日々。
結婚した当初は明るい未来しか想像していなかった私にとって、受け入れるのは簡単なことではありませんでした。
でも、それが「かわいそう」かどうか——私に聞かずに決めないでほしかった。
相手に悪気がないことは分かっています。慰めたい、励ましたいという優しさから出た言葉とも理解しています。それでも、「かわいそう」という一言で私という人間が枠にはめられてしまうような、そんな息苦しさを感じていました。
夫を亡くした=不幸な人。 ひとり親=かわいそうな人。
私はそんなふうに決めつけられたくなかった。きっと「そう思われたくない」という気持ちが強すぎて、本当はそんなこと思っていない人にまで警戒していたのかもしれません。
それでも、決めつけられることの痛みは、確かに私の中に残っていました。
ポストに入っていたチラシ
自分が決めつけられるのは嫌だった私。でも最近になって、ハッと気づいたことがあります。
私自身も、ひどい決めつけをしていたんだって。
夫が亡くなった直後、まだ誰にも伝えていないはずなのに、ポストに宗教関連のチラシや新聞がたくさん押し込まれていました。
どうして知っているの?
まず湧き上がったのは不信感でした。そして次に感じたのは、「つけ込まれている」という怒りと恐怖。自分の一番弱っているところを狙われたような気がして、涙が止まりませんでした。
それから私は「この宗教は絶対に信じない」「悪いものだ」って決めたのです。
でも、冷静に考えてみれば、それって完全な決めつけですよね。
その宗教を信じている一人ひとりに会ったわけでもない。その人たちがどんな想いで信仰しているのか、何も知らない。ただ自分の嫌な経験だけで、「○○に所属しているから悪」って決めつけてしまっていたんです。
宗教だけじゃありません。不祥事があった企業、問題を起こした政党、スキャンダルが報道された業界・・・。
私たちって、こんなにもたくさんの「決めつけ」をしながら生きているんだなって、改めて思いました。
アインシュタインはこんなことを言っています。
「常識とは18歳までに集めた偏見のコレクションである」
本当にそうだなって思います。私たちは自分のフィルターを通して世界を見ていて、思っている以上にたくさんの偏見を持っている。自分がその立場になって、初めて気づくことも多いんですよね。
その人自身を、ちゃんと見たい
ひとり親に対するイメージもそうです。
世間には「貧困」というレッテルが強く貼られています。もちろん、経済的に厳しい状況の方がいることも事実で、統計的なデータもあります。
でも、当事者として生きている私が見ている世界は、それだけじゃないんです。
すごく自立している人、素敵な生き方をしている人、子どもと充実した毎日を送っている人——そういう人たちもたくさんいます。でも一つのイメージだけが先行してしまう。これもまた、偏見なんですよね。
小さい頃から、「自分が嫌なことは、人にしてはいけない」と教えられてきました。私も子どもたちにそう伝えてきました。
なのに、自分がやってしまっていた。決めつけられることを嫌がりながら、自分も決めつけていたのです。最近、そんな自分をたくさん発見しています。
だからこそ今、個人として好き嫌いがあってもいいけれど、その人自身は、ちゃんと自分の目で見て確かめると意識しています。
新しく出会った人が、もし自分のイメージが悪い団体に所属していたとしても、その人をちゃんと見て、自分なりに納得したい。そうしないと、もしかしたらとても素敵な人かもしれないのに、勝手に自分から遮断してしまうことになるから。
偏見は完全にはなくならないかもしれません。でも、気づくことはできる。気づいたら、一度立ち止まることができる。
「これって本当にその人の姿なのかな?」 「私のフィルターを通した像じゃないかな?」
そう自分に問いかけるだけで、少しずつ、本当のその人が見えてくる気がします。
決めつけられる痛みを知ったから、決めつけない勇気を持ちたい。
死別という辛い経験は、私にたくさんの気づきをくれました。そして今、少しずつですが、自分の中にある偏見と向き合っています。
完璧である必要はないんです。ただ、気づいて、立ち止まって、もう一度見つめ直す。それだけで、世界は少し優しくなるんじゃないかなって、私は信じています。